twitterが怨念拡散ツールになりつつある気がする

私はTwitterをそこそこ長くやっている。
2014年の2月。6年である。

Twitterは誰かの飾り立てない日常の気持ちを垣間見ることができて好きだ。気軽に投稿できるのもいい。
だが、最近は政治的なメッセージや、自己顕示のための真偽のわからないツイートを目にすることが多くなった。
そういうツイートには、怒りをぶちまけるようなリプも多数付く。
コロナで不安な人が多いせいかもしれないが、TLが全体的に地獄の様相を呈している感がある。

「安倍ガー」はわかるが、○○○はもっと信用できない

コロナに対する対応をめぐり、政治に対する不満の声がたくさん上がっている。
確かに現政権の対応が悪い感は否めない。*1
各個人に色々な主張があり、それを叶えてくれる政党を支持するというのは自然なことだ。
だが、耳触りのいい言葉や強い言葉ばかり並べる政治家・政党は疑ってかかった方が良いだろう。
例えば、大抵の人が肯定する施策として「給付金・保障・支払期限延期」がある。
上記を「全部実現します!」と言われれば支持したくなるが、勢いで当選させた議員 (誰とは言わない) の所業が酷かったことは記憶に新しい。
また、この手の政治家には腰巾着が多数付いていて、それが当人を勢いづかせる一助となっている。
政治家に限ったことではないが、信者ばかりのリプ欄は本当に気持ちが悪いものだ。
見た後はブロックするのが常である。

自己顕示欲を満たすためのデマ(?)ツイート

これはコロナの前からもたくさん存在しているが、最近目立つ気がしている。
具体例はありすぎるので省く。
直近では「コロナ自粛のせいで飲食店経営の友人が自殺した」という文言に自分(の成果物)の写真をつけてツイートする人を見て、勝手にモヤモヤしていたところである。
私の知人が亡くなったら、たとえそれが付き合いのなくなった友人や最悪の別れ方をした元彼であってもツイートできないし、ましてや自分の写真を載せて「悲しんでいます…」なんて考えられない。
結局自己顕示欲を満たすための嘘なのではないかと邪推してモヤモヤしてしまうし、本当なら人の生死を利用している分余計にタチが悪い。
そういうアカウントは自撮り写真がアイコンとなっていることが多いことにも気がついた。
もちろんブロック対象である。

#拡散希望

このタグが付いたものは拡散してはいけないことが多い。
特に人探し。販売系もか。

見なければいいのはわかっちゃいるが

それが自分にはマイナスにしかならないことが薄々わかっていても、言葉が強いツイートはついリプ欄まで見てしまう。
こういうものに囚われる時のメンタルの状況はよろしいとは言えない。
そろそろリツイートを非表示にしないといけない時期なのかもしれない。

Twitterを辞めるつもりはない。
冒頭に書いたような楽しさがあるのは変わらないし、お手軽料理レシピや筋トレメニュー、色々な方のマンガが見られるのもとても楽しい。
下記にオススメの方を紹介するので、興味のある方はフォローされたし。
(敬称略)

なかしましほ ⁦‪@nakashimarecipe‬⁩
お料理レシピ。
簡単なものばかりではないけど、作りたくなる魅力がある。
豆漿 (トウジャン) おいしかった。

青い ⁦‪@24Bllue
「土地神と、村で一番若い嫁」(書籍版タイトル) という漫画を描いている方。
良い。

佐藤二朗 ⁦‪@actor_satojiro‬⁩
=仏 (勇者ヨシヒコ)
もちろん他の作品もたくさん出演されているが、私にとっては仏。

河野太郎 ⁦‪@konotarogomame‬⁩
防衛大臣。エゴサがすごすぎてフォローした。ハンコの人に見習って欲しい…

*1:精度の低いPCR検査より、人工呼吸器を製作できる企業に投資した方が良い気がする。自粛を続けるなら、この先3ヶ月程度は20万円×人くらいの給付金の支給+消費税撤廃くらいやって経済を回さないと厳しそうだ

ちまちまと幸せを積み上げる生活がしたい

さて久しぶりの更新。(明けましておめでとうございます)

昨年からずっと忙殺されている。
終わりが見えなくていい加減疲れてきたこともあり、「どうすれば毎日幸せに暮らせるか」をよく考えるようになった。
これは何度も行っていることだが、結局人生なんて「毎日の積み重ね」でしかない。
幸せになるには、人生一発逆転のような大きな幸せではなく、小さな幸せを重ねるのが正攻法なのだと考えている。
では実際にどうすればいいか。今までの反省を踏まえて考えてみたので書こうと思う。

家事を自動化して自分の時間を作る

7:30頃に家を出て、帰宅は22:30頃。
毎日ではないが、かなりの頻度でこんな生活をしている。
当然まともに家事などできるわけもなく、休日にまとめて対応というスタイルにならざるを得なかったのだが、この数ヶ月で何とか持ち直してきた。
改善できたのは間違い無く便利家電のおかげ。
食洗機、ドラム式洗濯機、ホットクック。
この3つがなければ「生活できない」と掛け値無しに言っていいくらいに依存している。

実は、この3つが揃ってからもう1年くらいは経っているはずである。
それでもここまで生活が立て直せなかったのは、自分が便利家電を使いこなせていなかったからに他ならない。
(特にホットクックは未だに使いこなせている気がしない…)
どんなに道具を揃えても、使わなければ意味がないのだ。
「家事を自動化する」という方針は間違っていなかったが、道具が揃えば自動化できるはずというのは安易だったように思う。
最近ようやく型にはまり、こうやってブログも書けるようになってきたので嬉しい。

仕事は適度に手を抜く

こんなことを書くと怒られそうだが、仕事は当たり障りのない程度にやることにした。
今までの私は「仕事楽しい!!」だったのだから、大きな変化である。
変化の理由は、環境が変わって仕事が面白くなくなったから。
人間関係や社内政治的なものが色々干渉してきて、まともにやっているのがアホらしくなってしまったのだ。
仕事に100%のパワーを割くより、60%を仕事、残り40%を自分の楽しみに使いたい。
面白くないことに時間やパワーを使い切る人生を過ごせば、死ぬ時に後悔するのは自明である。
そういう思いをしたくないのだ、私は。

また、100%でやったところで給与に反映されないというのも、モチベーションが上がらない大きな理由だ。
これはサラリーマンである以上逃れられない宿命なのかもしれないが、どれだけ利益を出しても(または損失を回避しても)、スズメの涙ほどしかフィードバックされない。
それなら、副業や趣味など、自分の人生にプラスになることに時間を使ったほうが良いだろう。

会社に人生を捧げても、会社は自分を守ってはくれない。
仕事が私にとって「楽しくないこと」になってしまった以上、適度に手を抜く、対価に見合うくらいで止めることがQOL向上には必要である。
(「手を抜く」は「学習しない・いい加減にやる」という意味ではなく、「積極的にやらない・深追いせず必要なことのみ対応する」という感じ)

自分を満たすものに投資する

何かものを買うとき、若かりし頃の基準は「値段」だった。
昨日が多少落ちても、それが妥協できる範囲なら値段が安いものを買っていた。
それはそれで間違いではないのかもしれないが、残念ながらQOLはどんどん下がって行く。

QOLが下がるのは、自尊心が満たされないからだ。
「本当はこちらのデザインが欲しい。でも高いからこちらにしよう」というのは、自分の欲求(=これが欲しいという気持ち)を否定する選び方である。
「お金」という価値基準を最重要視する傾向は今でも根強いが、個人的にはあまりおすすめできないという印象。
積極的に「安いもの」を選択することができる人は、もちろんこの限りではないが。

私は物心ついた時からそういう選び方をしてきたので、ついには何が欲しいのかよくわからなくなってしまった。
(ちなみに「必要なもの」は迷わず選べるし、誰かのためのものも値段を気にせず買える)
35歳を越えたくらいからようやく枷が外れたような気がしているが、それでもストレートに「これが欲しい!」で選ぶのは難しい。
この行動がQOLを下げていると気付いたので、人に迷惑をかけない限り、衝動的な行動も極力否定しないことにしている。
例えば夜遅くに帰ってから胃もたれ上等でチーズたっぷりのピザを食べてみたり。これは最高においしかった。

ゲームを発売日に即買いしたり、嗜好品をある程度グレードの高いものにしたりもした。
ふらっと旅行に行くようになったことも大きな変化である。SAや道の駅で地元の特産品を買って楽しんだりしている。
結果として、過剰にものを欲することはなくなったし、何となく感じていた不自由さや他人への線引きも薄まっているように思う。

「画一的な幸せ」では幸せになれないと気付く

例えば私は結婚していないし、子供もいない。
同年代の友人には家族がいる。

「ああ、私は友人よりも劣っているし、不幸だ。」と考えることは、幸いにして、ない。
「劣る」もこの場合の「不幸」も、友人と自分を「結婚は幸せである」という価値基準で比較した結果でしかないと知っているからである。
(知っているのは「役に立たない」と言われがちな文系卒のおかげ。人生について考えるという点ではとてもプラスになっている。)
例えば「自由時間の有無」という価値基準で比較すれば、圧倒的に私の方が「幸せ」になる。
「自己決定権」や「お金の自由」あたりも私の方が融通が効くかもしれない。
逆に、「緊急時の対応」や「安定」という点では負けているだろう。
結局、どちらも一長一短なのだ。

世間一般で言われる幸せに自分が則していないからと言って、気にすることはないように思う。
何かを持っていないのは、その対となる価値を持っていることと同義だ。
どんな生き方をしてもいいが、肝要なのは「自分がその生き方満足できるか」であろう。
幸せになるには、ゴールとなる幸せの位置をまず把握する必要があるが、それは常識や普通として語られる「画一的な幸せ」ではないことを意識しておきたいと考えている。

誰かを幸せにすることが自分の幸せになる

長々と書いて来たが、自分が幸せになる最強の方法は「誰かを幸せにする」ことだと考えている。
「誰か」は人間でなくても、何なら生き物でなくても構わない。ちなみに私は猫である。

猫に美味しいご飯をあげる。
甘えて来たら撫でる。
暖かくて柔らかい場所で寝かせる。(主に私のベッド)

猫は家事をしないし、お金を持ってくる訳でもないが、のびのびと穏やかに生きているのを見るだけで、なんとも満たされた気持ちになる。
日常にもっと幸せな時間を増やすのであれば、同じように誰かが喜ぶことを積極的にすればいいのだろう。
(優しくするとすぐに搾取してくる輩も多く、注意が必要なのが世知辛い)

また、自分が誰かの優しさを受け取ることも大切だ。
誰かの親切に対してつい遠慮してしまうが、受け取ることで相手を満たすことができるということは覚えておいた方がいいだろう。
例えば、公共交通機関で席を譲ったのに座ってもらえなかったら、何とも気まずい感じになる。
遠慮は美徳とされることが多いが、気持ちを込めて差し出されたものはありがたく受け取る方が良いと個人的には考えている。

毎日幸せな瞬間を重ねて生きたい

小さな幸せを積み上げるには、自分と、自分が大事にしているものを大事にすれば良い。
とはわかっていても、その方法論が無数にあり、外野が色々なものを押し付けてくるために見失いやすい。
最近ようやくQOLが改善して来た感じがあるので、この調子で毎日幸せを感じつつ過ごして生きたいと思っている。

手帳を使えば自分の人生の主導権を取り返せるだろうか

お題「手帳」

そろそろ新しい手帳の時期だ。
ほぼ日やジブン手帳から100均まで。
昔のことを考えたら、本当に色々と種類が増えた。
今日も興味本位で本屋の手帳コーナーをウロウロしてきたところである。

1番マメに更新したのは高校生の頃だろう。
B6のバインダー型、2cm×10cmくらいの狭い枠に色恋沙汰やら親への鬱憤やらを詰め込んでいた。

大人になり、ほぼ日やジブン手帳など色々なものを試したが、結局はそれなりに続いてフェードアウトというパターンの繰り返しである。
今は固定のノートにブレインダンプやTodoなどをたまに書く程度だ。

売り場こそ見たものの、今年は手帳の購入自体を迷っている。
欲しい手帳は3000円前後。無駄にしてしまうなら、買わない方が良いのではないか。
だが、そうすることで自分の人生がアンコントロールになっている状況に拍車をかけるかもしれない、と考えたりもする。
手帳への記入が続かない=何の指標もない、だからこそ最近不満だらけなのかもしれない。

時間がないと続かない

手帳への記録が続かないのは何故だろうと考えたとき、まず浮かぶのが圧倒的な時間の不足である。

愚痴を避けるためにわざわざお題から「手帳」の選んだのにあまり仕事の話はしたくないのだが、通勤時間合わせて仕事の拘束時間が14.5h、睡眠6h(本当はこれでも足りない)、家事やら身支度やらで1.5h(料理あまりしない、食洗機・ドラム式洗濯機使用 身支度は最小限)これで計22hである。
自由時間が2h?意味がわからない。
楽しくない仕事に人生の大半を注ぎ込まざるを得ないなんて、世の中どれだけハードモードになっているのか。
この状況を甘受して生きたら、人生最期の時に何を思うのだろう。不満の中で死を迎えるなんて、想像するだけでおぞましい。

正直なところ、休日以外はお金を下ろしにいくことすらままならない状態だ。
この状況で毎日手帳に記録する時間を捻出するのは無理である。

時間以前に、手帳に記録するパワーがないのも大問題だ。
頑張っても給料に反映されないから、モチベーションが下がる。
モチベーションが下がると精神的に疲れる。
疲れると何もしたくないから、ツイッターPS4何かをちょっとやって寝るというパターンが多い。
我ながら悪循環の極みと言える。

結局、手帳に日々の出来事を記録するには、時間、体力、気力の全てに余裕が必要なのだ。

時間管理で仕事を効率化…したくない!

「そもそも手帳は時間管理ツールなんだから、そういう状況こそむしろちゃんと手帳を活用するべき」という意見もあるだろう。
それはもう本当にその通りで、1つの作業に時間をきっちり割り当てて管理すれば、確かに効率良く仕事ができる。
後述のバレットジャーナルを使えば、抜けなく対応出来ることも体験済みだ。
ただ、今の環境では、効率良くやるほど疲弊するという残念な結果に終わった。
はっきり言って、手帳を活用して仕事を効率化して、ガンガン倒すぞ!…という気には微塵もならない。

業務の内容自体は楽しいのだ。がっつりやる熱量もあった。
だが、悪意が蔓延する職場では、楽しんでいる人間、うまくいっている人間は「ムカつく」となって仕事の押し付けや重箱の隅をつつくような攻撃の対象となるらしい。
異動直後は真面目に効率化を図ったのだが、私にだけ風当たりが強くなったので、アホらしくなってやめた。
(管理職も含めてこんなことをやっているのだから救えない…)

業務量の削減にはバレットジャーナルが使える

だが、仕事において手帳が完全に不要というわけでもない。
前述の「バレットジャーナル」である。
簡単に言うと「項目ごとに記号で進捗管理しよう」という方法だが、これが業務量削減になかなか効果がある。
概念については本家が書いた書籍はもちろん、薄いムック本でも十分に理解できると思う。
これを業務の効率化ではなく、サボるために使う。

作業は3ステップ。

①項目羅列
②要/不要にわける
③対応必要な項目は進捗管理、不要は誰かに言われるまで無視
依頼者によって やる/やらない を決める

この方法のメリットは、頭に浮かんだままのことを放置せずジャッジすることで、脳のリソースを有効利用できることである。
複数個の懸念点が片付かずに頭の中に残っているという状態がどれだけ脳のリソースを消費するか、私はこの数ヶ月でようやく理解した。
記憶力はもちろん、判断力や計算力すら奪われる。もちろん人生を楽しむための精神力も。
複数作業は一旦保存して終了、メモリを解放すれば動作が速くなるのはパソコンも人間も変わらないらしい。

「極力仕事をしない」というネガティブな方向に持っていくためにこの方法を使うのは、考案者に申し訳ない気もする。
が、QOLを上げるという意味ではポジティブだし、まあ勘弁してもらうこととしよう。

手帳を使うことで人生の主導権を取り返せるかもしれない

手帳術紹介の雑誌などで、使いこなしている人の使用例を見ると、記録することを楽しんでいるし、それによってQOLが向上しているように見える。
手帳に記録することで人生の肯定的な面にフォーカスする→メンタルが回復してエネルギー補充→楽しいから更に手帳に記録 以下ループ

嫌なことに意識を合わせる時間が長ければ、人生が楽しくなくなるのは当然であろう。
そして更に嫌なことが増えるという悪循環。
どうもここ数ヶ月の私は、こちらのループに入っているようだ。

QOLを上げる手帳術で比較的簡単なのは、その日の嬉しかったことを記録することだろう。
おいしい、楽しいなどでもいい。とにかく自分がいい気分になれたことにフォーカスし、冒頭のループに入ることを目指す。

「時間がない」や」嫌なことを避けるために力を使う」というのは、自分の人生の主導権が誰かに奪われているという証拠である。
私の人生は私のものだ。
仕事ごときに「楽しくない人生」にされてたまるか。
やりたいことはまだまだあるのだ。

よし、やっぱり今年も手帳を買おう。