幸せって何なんだ

なかなか減っていかないカルピスのメロン味のおいしい飲み方を見つけてちょっとほくほくしているがちゃまにあですどーもこんばんは。
これ。

メロンと言えばメロンソーダでしょう!
ベースがカルピスなので透明感はなく、メロンクリームソーダな感じになります。アイス乗せたらもっとうまいだろうな。
牛乳で割るとメロンオレに。100円のパックのやつの味です。


今日はものすごく疲れているせいか、何だか妙にそわそわ。
折角カルピスメロンのおいしい飲み方を発見したのに、残念ながら相殺されてしまっている*1

そんな日に長文を書くのはあまりよろしくないのだけど、どうにも頭が勝手に動いてしまうので吐き出しておくことにする。
別に誰に宛ててとか、何かの価値観を否定するための文章ではないことは最初に伝えておく。

あ、ほんとに荒んでるとかそういうわけではないので。疲れてるけどいたって平常運行です。

音楽って素晴らしいっすね

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山崎まさよし。まさやん。
なんとなく茶色一色で描きたくなったのでやってみたが、色鉛筆は消えにくいのでちょっと後悔した。
残念ながら私の技術じゃこれ以上似ない(笑)
懲りずにまた描くけど!


先日「雨の日はギター弾きたくなるよね - がちゃまにあ日報」という記事を書いた。
そのままギター練習は継続中なのだが、曲をスピッツの「チェリー」から山崎まさよしの「セロリ」に変更した*2
その関係で久々に1曲リピートしたりPVを見たりして聴き込んでいる。

曲がいいのはもちろんなんだけど、それ以上にやってて楽しそうなのがいい。
セロリのPVでもちょいちょい出しているが、何かイタズラを企んでいる子供のように*3ニヤっとするあの表情。
ああいう顔をする人は、例外なく面白い。
恋愛とかどうでもいいから、とにかく時間を共有したくなる。
価値とか意味とか、そういうのはどうでもいいのだ。
どんなくだらないことでもいいから、一緒に何かしたい。絶対に面白いからである。


まさやんの曲(「HOBO's Music」*4のものは特に)は、日常に焦点を当てたものが多い。
強い恋愛感情や切ない世界ではなくて、あくまで日常を切り取った歌。
そういう曲を聞いているせいか、強い意志や感情を持ち、苦労をしつつ「幸せ」とやらに突き進むような生き方に、ものすごく違和感を感じるようになってきた。

苦労して日常を劇的に変えないと「幸せ」になれないのだろうか。
誰かといないと「幸せ」になれないのだろうか。
高価な何かを手に入れないと「幸せ」になれないのだろうか。
将来に保証がないと「幸せ」になれないのだろうか。

なぜ今すぐ「幸せ」になれないのだろうか。

そもそも「幸せ」ってなんだ?

どうなったら「幸せ」なのだろうか?


そのあたりが最近非常にモヤモヤしている。
それは文句の多い人間が周囲に多いせいかもしれない。

私が横にいる今この瞬間は、同じ景色を見ているはずである。
それなのに、何故文句ばかりなのだろう。
楽しいことや面白いことなんかゴロゴロ転がっているというのに。

楽しい面を見ればいいのに

同じ現実を味わうなら、どうせなら好意的に解釈したほうが楽しい。
良くある例だが、「コップに半分の水がある」という現実の解釈を「まだ半分ある」とするか「もう半分しかない」とするか。
それが別れ道なんだろう。

不満があるということは、もっと満足する楽しみが残っているということだ。

できないということは、できたときの達成感をまだ味わえるということだ。

ポジティブシンキングか!と突っ込まれそうだが、無理矢理ではなく自然とこういう視点になってしまうのだから仕方ない。

世間ではいかに手間をかけずに成果を得るか、そういう方法論ばかりがもてはやされている気がする。
だが、いきなり結果を得て本当に嬉しいのだろうか?
モンハンでチートを使って古龍種を倒したって、何も面白くはない。
あれはソロで、みんなで、苦労したあとの成果だから嬉しいのだ*5
多分本人ははもう「苦労」とは思っていない。
ただただ「こいつを倒したい」という想いに忠実になって動き、楽しんでいるだけである。

結局、今に没頭できることが「幸せ」なのかなーと思ったりしている。
探しても探しても見つかるわけがない。
やはり青い鳥はいつもすぐそばにいるものなのだ。

時間だけはどうにもならない

話は変わるが、将来に備える、これは確かに必要なことである。
自分の体が今のままなわけはないし、社会情勢もどうなるかわからない。
いざという時のために備えるのは、家族制度が崩壊気味な現状を考えれば必須と言ってだろう。

ただ、それにも程度というものがある。
将来を過剰に意識して生きることは、人生をただの「消化作業」にしてしまうのではないかという気がしてならない。

これは現実を見ずに無謀な選択をしろということではない。
自分が「こうしたい」と思ったら、もっとフランクにその気持ちに忠実になってもいいのではないかと思うのだ*6

したいことは別にあったが安全な道を選んだ、それはそれでいい。
ただし、それがしたいことをやらない理由にはならない。
「やりたいけどやっていないこと」は、いつまでたっても心にしこりとなって残る。
いつまでたっても「やりたい、けど・・・」のままである(私だけか?)。
それだったら、さっさとやってしまえばいい。
しないことを正当化する言い訳は必要ない。

こうするようになってから、「時間は取り戻せない」という当たり前の事実が重くのしかかるようになった。
どうして去年からしなかったのだろう。
去年? いや10年、15年前から。
「やりたいことに没頭し続けなさい」と昔の自分に言ってやりたい。本当に。

「早く彼氏作らなきゃ」なんてことはない

「元うちの人」はやはり「元」なわけで、私は新しい彼氏を作っても良い状況にある。
が、何だか恋愛には心が動かない。
1人でも十分に楽しい(今はむしろ1人が楽しい)からである。

とはいえ、まさやんの「セロリ」の歌詞にあるように「1人じゃ持ちきれない素敵な時間を」共有したいとは思う。
1人でも幸せだが、2人ならもっと幸せ。
そういう相手がいればいいとは思うが、それはすでに恋愛感情だけでは補えないような気がしている。
「この人じゃなきゃ」という固執*7はない。
かといって誰でもいいというわけでもない。

自分で言っておいてよくわからないが、要はまさやんのような「面白い人」と過ごしたいのかもしれない。
自分が提案しても面白いが、相手に乗っかるのも面白い。
これは恋人関係に限らず、なるべく広く適用したい。
職場なんかでも、自分が企画して現実的な手段を提案すれば、案外乗ってくれたりするものだ。
最低限の仕事で済ますこともできるが、どうせなら楽しいほうがいい。
これに必要な行動はすでに「苦労」ではないというのは、前に書いたとおりだ。
私はただ楽しくなりそうな方向に行動しているだけである。

もしかすると、1人で心から楽しめてないうちは人といないほうがいいのかもしれない。
自分の穴(退屈とか不安とか、人によって色々だろうが)を埋めるために人の時間を使う、これはあまりよろしくないと思うのだ。
「幸せ」になれるかどうかが、他人次第になってしまうからである。

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4000字超えたのでぼちぼち終わります。
やっぱりまとまらない。

まあとにかくこんなことを考えながら生きてます。
現実の諸問題は何ら変わってないけど、何だかんだ言っても幸せです、はい。

*1:疲れてはいるが、精神的にネガティブでしんどいとか、そういう状態なわけではない。ただただ「そわそわする」のだ。理由は良くわからない。ちなみに「相殺」は「そうさい」派。どうでもいいが。

*2:いつか絶対弾き語りしてやるんだ。

*3:「子供のように」と言ったが、子供でもこの表情をする子はそういない。「いい子にならなきゃ」というのが先に来てしまうのか、本来の良さが削がれてしまっていることが多い。つまらん。

*4:「HOBO walking」とか「ブランコ」とか、ほんとにもう流れる空気感が素晴らしい。どんだけあったかくて丸いんだと思う。「Let's form a R&R band」は自由になるための曲。まあとにかくいいアルバムです。

*5:とはいえ、素材集めになると消化になるので話は違ってくるのだが。

*6:「ただし、何をしてもいいというわけではない」と注釈するのは野暮か。いやでも突っ込まれそうだし。

*7:ちなみに「固執」は「こしゅう」派。これもどうでもいいが。