善悪と好き嫌いは混ぜないように

朝から胃が痛い。うぐぐ。

ふと思ったんだけど、善悪で判断することは、ある1つの価値基準に支配されてるということだよなーと。
それってものすごく自由度低くないか?
そういう意味では、広い視野というのも大事なのか。

ただし、好き嫌いは完全に主観であり、絶対基準。
ここは譲れない。

この辺混同するから生きにくくなるんかもなー。
とか思った朝。

さて、今日こそ早く帰ってくる!!

そろそろ中立なんざやめて、思いっきり肩入れしてやろうかね。

このブログを始めてから3年以上たった。
書く内容にまとまりは全くないが、一応中立というか、極力視点を変えた捉え方もするように配慮している。
絶対的な善悪がない以上(法に触れるとかは別として)、何かを「悪」と断罪はできないからだ。
自分の感情を客観視するために、文体も「〜である」のようにあえて堅めにしている。
「色々な意見があるけれど結論はこうだと自分は思う」
その「色々な意見」を自分の主観で消さないために取った方法である。

どちらの意見にも理解を示す、一般的にはそれは「寛容」と評される状態なのだと思う。
おかげ様で炎上したこともなく、平穏にブログを続けることがてきている。

だが少々この中立状態に飽きてしまった。

全てに寛容であるということは当時に何を決めているでもないということだ。
決めないということは、自分の中に指針がないということである。
厳密に言えば、私の場合ないというわけではなく、あるにもかかわらずそれを「配慮」の名の下に抑えている状態だ。

もちろん敢えて炎上させることは考えていないし*1、攻撃的になるつもりもない。
ただ少し、素直になろうかなーと思っただけである。

視点を変えてものを見る癖はしっかりついたが、回りくどく言葉を並べて真意をぼやかす、そのやり方は今の私には性に合わなくなってしまった。
別に何かあったわけではないし、ましてや「PVが欲しい」とかいうブログ的な理由でもない。
何となく、変えようという気になっただけの話だ。

そんなわけで、これからは好きなものは好きだということを、自分の視点だけで、ストレートに押し出していこうと思っている。
もちろん嫌いな人やものもあるが、敢えて嫌いなものに意識をフォーカスさせておくことはないだろう。
あんまり腹が立ったら書くかもしれないが(笑)
とにかく、もっとカジュアルにブログと関わろうと思った次第である。

*1:炎上させるってほんとに悪手だと思う。人の気分を害するようなものを作る人の気が知れない。どうせならみんなが幸せになる方向にその力を使えばいいのに。

スタバの新作「ホワイトチョコレート&ピーチクリームフラペチーノ」がうますぎるのでめっちゃオススメしたい

もうタイトルで言いたいことは全て言っているのだけど、スタバの新作「ホワイトチョコレート&ピーチクリームフラペチーノ」がうまい。超うまい。

桃の香りがふわっとして、甘過ぎない。
うっかりグランデサイズにしてしまったけど*1、これなら飲みきれる。


果肉はゴロゴロ。だけど吸いにくくなることはないサイズ。
スタバのフルーツ系のフラペチーノは果肉をケチらないのが嬉しい。
以前のメロンやストロベリーのフラペチーノも、しっかり素材の味がしてた。


かわいい女の子からスマイルももらいました。
ほんとおいしいので皆様も是非!

*1:コーヒー系ならいいが、フラペチーノはいつもトールですら飲みきれずに溶けてしまう

自己評価と他者評価が乖離すると厄介だ

自分の生み出したもの(文章・絵など)を読まれるのがすごく苦手だ。

数字に基づいてデータをつくり、そこに考察を入れるような、「正しさ」のある文章はいいのだ。
そうではなくて、自分の感情や意思、趣味嗜好を表現するようなものを見られるのが嫌なのである。

こういう感覚を持つようになった理由に、思い当たる節はある。
自分の基準ですごくいいものができたと思ってもそれを他者に一蹴されたり、社会的な評価軸においていい成績を収めた(客観的に見てもよくできた)状態であっても妥当な評価がされない、こういうことが続いて「いい結果でも見せるのが嫌」という感覚を持つようになってしまった。
恥ずかしながら、「どうせ見せても○○だし」なんて拗ねたことを思ったりしている。

もちろん現実にはそんなことはない。
ありがたいことに、職場でもプライベートでも、過大評価なんじゃないかというくらい評価されている。
それを「そんなことはない。調子に乗っちゃいけない」と、自分の心が受け入れない。
できる自覚はあるし、周りの評価もある。だけど自分が受け入れないというのは、なかなか奇妙な現象である。
環境がどうであれ、結局は自分の意思次第か。

逆に言えば、体感的なものは自分次第でどうにでもなるということでもある。
幸不幸なんて体感でしかないのだから、現状よりも満たされている感覚があればいいのかもしれない。


…なんてことを思った朝。
今自分の文章が読まれてジャッジされていると思うと憂鬱だ。
ものすごいダメ出しを食らうかも…という予感しかないが、きっと現実はそうでもないんだろう。
現状と自分の認識が乖離すると厄介だ。
まあ 現実<認識 ではないのが救いだな。

さて金曜日。がんばりますかね。

情報過多でどれがいいのかわからない

情報ばかりである。

朝から何言ってるんだこいつ、と思われるかもしれない。
どこを見ても(観測範囲狭いが)「オススメの〇〇〜選」とか「〜する方法」とかばかりで、何だかそういうタイトルを見るのに疲れてしまった。
別にアフィリエイトを否定することはないのだが。

そういうものばかりあるように見えてしまって(本当は目立っているだけ)、なんとなく自分の中で引っかかってしまっているけど、これもブーメランかつただの愚痴レベルの話なんだろう。
自分も人に勧めたいことはたくさんあるし、実際書いてもいる。

だけどやっぱり、お金の匂いに寄ってくる感じは苦手だなあ。
「参考になります」とかな。本当に好きならいいが。
目的のために近付かれる感じにはつい警戒してしまう。
神経質すぎやねん、マジで(笑)

さて、仕事してきます。
良い1日を!

【アゲハチョウ月報 合併号】自然界は厳しい。羽化できなかったさなぎ

去年、ふとした思いつきからアゲハの幼虫を確保→羽化させて巣立ち という、アゲハブリーダーをした。




我が家のみかんの木は通年変わらず人気で、気付けば数匹の幼虫が住んでいる。
(そしてみかんは丸裸に…おかげで未だに実をつけたことがない)
秋になると、春待ちと思われる幼虫が2匹。
丸々とした超大型ルーキーである。
これは羽化したらさぞかし立派なアゲハになるに違いない。
だが、確保しようと思っている間に姿が見られなくなってしまった。
これは鳥さんに食べられたか…と諦めていたら、隣接する多肉植物で蛹化しているのを発見した。
だが残念ながら羽化に失敗したようである。

ピンボケすぎてわからないかもしれないが…
中央左の茶色い物体がサナギである。
穴が空いているのがおわかりいただけるだろうか。
どうやらハチか何かに寄生されていたようである。

寄生に関しては、このページに詳しく記載されている。

蝶への寄生(寄生バエ、寄生バチ)
大阪市とその周辺の蝶 より

無抵抗な幼虫は格好の食料だ。
食料に卵を産みつけておけば、孵化した後に餓死することはない。
寄生というのは生存率を上げる、ものすごくレベルの高い産卵方法だと思う。


現在、みかんの木に幼虫は確認できない。黒い卵が1つだけ残っている。
幼虫よりは寒さ耐性ありそうだが、望みは薄そうだ。
孵化したら確保しようと思う。

春になればアゲハがまた産卵しにくるだろう。
それまでブリーダー稼業はしばしお休み。
気長に楽しんでいこうと思っている。

【自戒】今年の抱負は「御託はいいからさっさと動け!」

今週のお題「2017年にやりたいこと」

あけましておめでとうございます。
本年もちまちまと更新していきますのでお付き合いのほどよろしくお願いいたします。

長期休暇も今日で終わり。
明日から仕事、しかもトップギアに入れないといけない状況である。
憂鬱とまでは行かないが、少々気が重い。
こんな気分で最終日を過ごすのも勿体無いし、自分に檄を飛ばす意味でも抱負などを語っておこうかなあと思う。

「あれ、自分同じことやってないか?」

気付いたのは年が明けてからである。
初詣を終え、初売りのイオンモールをふらふらと回っていた時に、ふと「ダメな理由探してるの自分も一緒なんじゃ?」と思った。

私は自分自身の現状に対してはこれといって不満を持っていないのだが、自分を正当化して同調を求めてくるような愚痴を聞くのだけは本当に不快で苦痛だった。
「上司が悪い、会社が悪い、こんなことできない、面倒臭い」要旨は主にこの4点であるが、それを現状の忙しさ、待遇などを理由にひたすら訴え続けてくる。
打ち合わせ中でも関係なく突っ込んでくるからタチが悪い(もちろんスルーだが)。
「じゃあ〜したらどうですか?」と言えば「そうだけど〜だから無理」と返ってくるし、「できないなら私がやるので」と言えば「いや、いいです」と来る。一体どうしろと?
恐らく立場の近い私に自分がそう思うことを肯定してほしい*1だけなのだろうが、それをすると仲間意識を持たれ、延々と愚痴を聞く羽目になるのが目に見えている。
作業中の人の手を止めさせてまで自分の話をするような人だ。極力関わりたくはない。*2

そんな状況にさらされて嫌な思いをしているから、自分は「ダメな理由探し」をしないようにと思っていたのだが、しっかりやってしまっているのではないか。
そう気付いたのである。

「善」の体で来るものを拒否するのは難しい

とはいえ、自分が何かができないことを他責にするようなことは、さすがにはあまりない。
不快な気分になるのでグチグチ言ってはいるが、「この人のせいで…」とは思っていないのだ*3
それは誰かを悪者にするのではなく、状況分析の結果として現れるのである。

無論、状況を把握し、行動の是非をジャッジすることは重要だ。
何の策も勝算もないまま動くのは冒険ではなく単なる無謀。まさに読んで字の如しである。
ただ、「状況が悪いから」と言っていつまでも行動しないのはよろしくない。
いつ来るかわからない機を待ち続けるより、覚悟を決めて動いた方が良い場合は往往にしてあるのだ。それは自分の経験からも理解している。
それでも待ってしまうのは、それが状況分析結果という一見「正しいもの」の顔をしているからである。

正しさや善を装って来るものは、拒否することが難しい。
プレゼントなどを考えてもらうとわかりやすいかと思うが、たとえそれが自分の好みではなくても、プレゼントとして提示された以上は「ありがたい」という態度で受け取ることが多い*4
自分のいらないものを寄付するなどもこの部類だろうか。自分がいらないものは他者にとってもいらないものとなる可能性が高いのだが、受け取る側は非常に断りにくい(ちなみに断ると送り手が激昂することが多いようである。受け取らないのは傲慢だと。どっちがやねん。)。

社会的な「善悪」(一般的な善悪、ここではさらに価値の優劣という意味も含めて)と個人の「善悪」が一致しないことはままある。
誰かが「常識的に考えて」善だとしたものは、誰かにとっては「悪」だったりする。
「良かれと思ってしてあげたのに」なんて言葉を聞くが、物事に対する解釈の仕方までを相手に強制するのはご法度である。
それは相手にとっては「良くないこと」であるという事実を曲げてはいけない。*5

したがって、本来なら必要ないものは拒絶していいはずなのだが、大方の人は善を拒否すると罪悪感が湧くようになっている。
悪意は拒絶できるが、善意はそれが難しい。
たとえそれが自分の心の中で起こっていることであっても、その傾向は変わらない。

奥にあるのは「恐怖」

話が逸れてしまったので戻そう。
私の中には「もっともらしい理由を持ち出して、行動しないことを肯定する」という思いグセがあるようだ。
一見すると正解のような理由を持ち出して、自分を納得させている。

「時間がない」「体調が悪い」「気候が適さない」「お金がない」このあたりは誰もがよく使う逃げ理由ではないかと思う。
別に逃げてはいけないと説くつもりはない。どころか、処世術として「逃げ」は必須だ。
全てに対して「気に入らないから嫌」なんて言っていては、円滑な人間関係は成り立たない。使い方次第である。*6

だが、それが自分に対してだと話は違う。
処世術など必要ないのに、自分に嘘をつくのはなぜ?
それは恐らく、行動すること(もしくは行動後の変化)に対して恐怖心があるからではないだろうか。

それが肯定的なものであれ、変化は負荷になる。
私は割と変化に柔軟な部類だとは思うが、それでも変化の最中は精神的に疲れる。
大変な上に失敗するリスクだってあるのだ、多少の不満があっても変化よりはまし。そういう考え方もあるだろう。
「変化は苦痛の元凶、怖い」臆病な自分がそう感じても何ら不思議ではない。

ここで認識しなければならないのは、変化しなければ失い続けるということである。
それは体力であったり、チャンスであったり、残された時間であったり。
自分が今のままであり続けられるという誤認が、この元凶ではないかと思う。

時間が流れ続ける以上、「今のまま」などありえないのだ。
時間経過による強制的な変化にどう対応するかで人生を終えるときの満足度が大きく変わると思うのだが、どうだろう。

その観点から言えば、極力行動の制限になるようなことはない方がよい。
常識の適用も、状況分析からの「待ち」の判断も、度が過ぎれば毒である。
そして自分には大いに過剰になる傾向がある。

「御託はいいからさっさと動け」

そんなわけで、今年の抱負は「御託はいいからさっさと動け」とした。
自分の中の臆病な側面ももちろん否定はしないが、心の中で言い訳する自分に対し、半ばキレ気味に「やかましい!御託はいいからさっさと動けや!」と煽るくらいの度胸も必要だと思うのだ。
この言を逐一思い出すことによって達成できたことが、すでにいくつもある。

例えばランニング。
ずっと風邪気味だし、冷たい空気で気管支炎気味になると見て始めなかったのだが、「とりあえず行けや」と却下してみた(体調に関わることなので真似するのはあまりオススメしない)。
始めると確かに多少気管のあたりがもやもやするものの、大事には至っていない。
恐らく続けるうちに耐性がつき、軽くなっていくのではないかと予想している。
長距離ではなく緩急つけた短距離のランにしているので、心的な負担はほぼ0だ。
ちまちまと続けて行けば、いずれは大きな差になるのではないかと考えている。

こんな感じで、去年から手付かずだったことを順番に倒し始めている。
掃除・片付け・DIY・手続き諸々といった生活の雑務から、やりたいと思ったのにやっていない趣味など、適用範囲は広い。
すでに成果も出ていることだし、今年はこの方針でいきたいと思う。
とはいえ何より優先なのは「毎日楽しく生きること」。そのために変化を受け入れるのだから。
行動が苦行になるようなら、当然見直さないといけない。
試行錯誤しつつ、今年もやっていこうと思う。

*1:要は私をはけ口にしたいだけなんだろう。もっと心的距離の近い人なら考えるが、まずそうなることはない。

*2:明日から仕事が始まるが、1番憂鬱なのがこの人に会うことである。

*3:むしろそれを理由においしいもの食べたり欲しいもの買ったり。

*4:その後はメルカリなどで売ってしまっていたりするようだが。クリスマス怖い。

*5:「良くないこと」であっても送ってくれた相手の気持ちを考えて「ありがとう」と言う、それが処世術。クリスマス怖い。

*6:この観点から言えば、冒頭の愚痴を言う人に対する私の態度は賢いとは言い難い。「アホなのはわかってる、だが嫌いなもんは嫌いじゃ!でもある程度の関係は維持しないと…」となってストレスが溜まる。

【混んでます】2017年 椿大神社 初詣状況

まさに今、初詣の列に並んでいる。
車は停められたものの、境内の鳥居すらくぐれない状況である。
こんな混雑今日だけかもしれないけど、参拝来る方に情報展開しておきます。

駐車場は迷わず臨時駐車場へ!

平日なら境内に付近まで攻めてもいいが、初詣時期はやめたほうがいい。
駐車場難民になること請け合いである。
私は去年何も知らずに突っ込んで、30分以上渋滞に巻き込まれてしまった。
今年は別ルートで行って停車まではスムーズに進めたので、ぜひそうすることをオススメする。

赤丸が混んでいるところ。どれだけ待つのか想像もつかない。
去年が30分の渋滞で済んだのは、臨時駐車場に飛び込めたからである。
今年は青丸のあたりの臨時駐車場に停めた。
道もスムーズ、駐車場面積もそこそこあるので、良い判断だったと思う。
境内までは徒歩で20分程度。
ただし坂道なので、お子さんやご年輩の方はもっと余裕を見たほうがいいだろう。

トイレなど

椿大神社の最寄りのコンビニはファミリーマート
境内付近には椿会館というものが2つあり、そこには綺麗なトイレがある。
初詣時期には出店も出ているし、多少の休憩はそこでできるのではないかと思う。

参拝待ち時間

並んでから15分ほど経過したが、ようやく本殿が見えてきた。

伊勢神宮に比べれば、相当サクサク進んでいる印象。
7・8年前だと思うが、伊勢神宮に初詣に行ったものの、本殿下の階段のあまりの混み具合に参拝を諦めて帰ったことがある。
あれに比べれば大したことはない。
このペースなら、椿大神社は30分〜45分待ちくらいかと読んでいる。

とりあえず車を停めるのが最優先

スムーズに参拝しようと思ったら、境内付近まで攻めずに車から降りる、これに尽きる。
歩く労をかけることを決断できるかどうかが分かれ目かと思う。