模倣の線引きとオリジナリティ

今日は普段より輪をかけてグダグダな記事である。
頭でわかって気持ちがついてこない案件だからだ。
変に潔癖なんだろうな、多分。

模倣が悪いわけじゃない

例えば何かを作るとき、その方法を調べる。
読んで理解して、その方法を使って自分のオリジナルデザインのものを作る。
そうしてできたものは、果たして「自分のオリジナル作品」と言っていいのか。

…いや、多分言っていいんじゃないかとは思ってはいる。
例えば絵を描くとき、同じような技法、タッチの場合もあるわけで。

こんなのとか

これ、ヒグチユウコさんじゃなく、Dさんという方。
タッチは似てるけどよく見りゃ顔とか違うし、ヒグチユウコさんのがもっとダークかなー?
私はこの絵がかわいいと思っている。このフェイスパウダーなんかジャケ買いに近い。
けどどうなんだろうね。こういうのありなんだろうか。

こんなの言い始めたらキリがなくて、ある漫画家が他の漫画家の影響受けてるとか、この音楽はあれがルーツっぽいよねとか、この商品あれのパクリやん、とか。
芸術の世界だけではなくて、日常生活にもそんなものは溢れている。

そもそも、何かを上達する1番の近道はやはり模倣だ。
好きなキャラクターを見ながら描くことによって絵が上手になる。
上手い人のプレーを見て真似て、スポーツが上達する。
できる人のコードを読み解くことで、プログラミングのスキルが上がる。
自分自身もそれを経験しているし、こどもがそうやって成長する様もたくさん見ている。
ものづくり以外のことでは許容できるんだよな。

オリジナリティとは

私の中で引っかかっているのはきっと「オリジナリティ(独創性)」というやつだ。
「これはこの人の真似して作っただけ=自分オリジナルじゃない」この感覚。

「自分でつくった時点でオリジナルである」という見方もできる。
本の通りだろうが、制作キットを使おうが、とにかく自分で作れば「オリジナル」。
確かにそれは「世界でひとつのもの」だし、その人のオリジナルと言ってもいいのかな。
…いいのかな?
やっぱり今ひとつしっくりこない。

何でこんなことをグダグダ書いているかというと、この感覚が何かを作ることから自分を遠ざける心的要因になっているから。
解を見て問題を解くような、ちょっとズルした感覚になるのだ。もちろん模倣が悪いとは全く思っていない。
上達したいなら模倣大事、それは前述の通り。
ただ技術の模倣の時点では、それが自分のデザインしたものであっても「オリジナル作品」ではないのではないかという気がしてしまう。
これはきっと、技術を体得するまでは、何ができても(どんなに上手にできても)自分のものを評価できない、しちゃいけないように捉えているということなんだろう。
…そりゃ作る気なくなるわー(笑)

技術を模倣できた時点で、それは半分くらい体得したことになるのかもしれない。
自由に使いこなしたりアレンジして改良できるようになった時点で本当の「体得」かな。

その辺の自己評価をちょっと緩めても良いのかなーという気にはなってきた。
もっと気楽にやろう(笑)