わからないままじゃダメなのか?

気になる記事があったのでいろいろ考えてみる。

善がわからない - 反社会的な中学生

徹夜明けだそうでなかなか難解な文章ですが面白かったです。
思考が行ったり来たりしている感がものすごくよく伝わってくる。
いつぞや書いた「頭の中をぶちまけたい」というのは、まさにこんなことをやりたいのです。
私は頭の中で反芻してしまうのでこれができない。
(もしこれがきっちり計算した上で出来上がっている混沌だとしたらすごい)

「善人」を目指していた頃の私

善悪に関してということだが、まずは若干の自分語りをしたいと思う。
私には「善人」でいようとしていた時期がある。
ここで言う「善人」はまさに「悪人」の対極にある存在、
つまり「いい人」ではなく「善そのもの」になろうとしていたということだ。
こんなことを考えていたのは小学校高学年~高校まで。
どこぞで書いたと思うが、「自分には価値がない」ということを自覚(=誤解)し、それについて考えていた時期である。

「善人」になれば他人から評価される。
それはすなわち「自分に価値が与えられる」ということだと当時の私は考えていた。

そのときの私にとっての「善人」とは

・他人に優しい
・年長者の言うことはよく聞き、下の者の面倒をよく見る
・努力する
・万能
・悪を挫くために、正々堂々戦う
・嘘をつかない
・常に温和で怒らない
・自分をきちんとコントロールし、欲望に負けない

などなどなど。
ま、いわゆる「まじめ一辺倒な人」を目指していたわけです。
子どもっぽさのカケラもない、かわいくない子どもだったなーと自分で思う。

そんなものを目指していた頃の私がどんな心理状況だったか。
残念ながらそれを文章として残してはいないのだけれど(だってブログなんてない時代だもの)、
「何で自分は評価されないんだ」「私のほうが優れているのに!」「どうせ自分なんて」という気持ちをよく感じていたのは覚えている。
一言で言えば「荒んでいた」。
ああ、何だこれ超恥ずかしい。ガチで厨二。
だがその頃の私はこんなことを大マジメに考えていた。
結果として、私はゲームと勉強に没頭することになる。
理由は簡単。「数字は裏切らないから」。
ゲームは努力(=レベル上げ)すれば必ず敵を倒せる。
勉強はテストでいい点を取れば必ず他人より評価される。
評価に「感情」の余地がないということは、絶対的に公平で信頼できるものだった。

でも、やっぱり満たされないのだ。それだけでは。

そうすると結局「善」を追求することになってしまうのだが、
それによって自分に価値が付与されることは(少なくとも多数の人間に評価されるようなことは)なかった。

「悪」にもなれない

追い込まれ過ぎて、自分の中にある「悪」を意識したこともある。
どんな「悪」かは私の人格を疑われるので絶対に書かない(笑)。
それは「人を騙す」とかそういうレベルではなく、最底辺のものだとだけは言っておく。
自分のせいで、周りの空気がピリピリしている(例えるなら、ドラゴンボールとかで敵に気圧されている感じ)。
感情が高ぶっているのはわかるのだが、その感情を感じることができず、頭の中はものすごく冷静。
あと1つ何かキッカケがあれば、私はその「悪行」を実行する。他人事のように考えていた。
そんな私を現実に引き戻したのは、誰かの「何かこの周り空気違うね」の一言だった。
もう3分その状態が続いていたら、私の運命は大きく変わっていたと思う。

と、実話なんだけど表現力がなくて妄想にしか聞こえない話はここまでにして。

とにかく、私は「悪人」にはなれなかった。
「善人」にも「悪人」にもなれないと悟ったのもこの時だ。

そもそも「善悪」ってなんなんだ

その後は結局「善人志向」に戻ったが、以前ほどきつい精神状況には陥らなかった。
相変わらず曲がったことや理不尽なことは大嫌いだったのだが、
それとバランスを取るように「悪いこと」もするようになったのが良かったらしい。
悪いって言ってもね、学校サボったり、ちょっと飲んでみたり、ピアス開けてみたりっていうくらいのもんです。
なんてかわいい。
でも、今まで「ルール違反、だめ、絶対」だった自分にとって、これは画期的でした。

さていよいよ本題(やっとか)。
「善」と「悪」ってなんなんでしょうね?

まず「悪」に関してですが、「これは絶対悪」と断言できる行為があります。
それは「法を犯すこと」。
つまらん結論ですいません。でもここはまず譲れない。
日本に住むのであれば、法律に逆らうことは「悪」です。
「犯罪」と呼ばれる行為は法に触れるからこそ「悪」なのであり、その行為自体が「悪」というわけではありません。
私が「学校をサボった」のは校則を破る行為だから「悪」というわけです。

続いて「絶対とは言わないけどかなりの確率で悪」というのが、「規範を破る行為」。
「明文化はされてないけど、倫理的に考えてやってはいけない行為」、これは「悪」とされることが多い気がします。
例えば「二股をかける」。
固定の相手がいない状態(=誰とも付き合っていない状態)でも、
2人の異性に同時進行で手を出すと、影で「あいつは悪い男(女)だよ」と言われますね。
合理性重視なのか、単に選べない優柔不断なのか・・・。
私はこんな器用なことできないんで、これをやる人の心境はよくわかりませんわー(笑)

これに対して、「善」を定義するのはものすごく難しい。
だって明文化されてないもの。
道徳や倫理といったものはあるけど、それだって主張がまちまちだしねえ。
あ、宗教によっては「善行」を明文化しているところもあるのかも(詳しいことは知らない)。

強いて言うなら「相手にとってプラスになること」が「善」かなーと思います。

でもそうすると、id:kouas1100さんの言うとおり

いろいろ考えると何も実行出来ない。電車で席を譲るのだってその人が実は極悪人の可能性とか考えちゃうと行動出来ないしさ。妊婦さんに気を使うのだってただのデブだったら申し訳ないし。
善いことをしようと思うと面倒くさい。もっともっと簡単に善いことを実行すればいいんだろうが、人を傷つけることになる。方向を間違えた善意ってやつ。厄介。
事故なんだから多目に見たいんだけど、腹立つよね。善いことだと思ってしたことが人生狂わせるんだぜ?おお、怖い。善意で人を殺せるよ。
すべての行いに責任を持つことなんて出来ない。そんなことしてたら何回腹切ればいいんですか。この世は方向を間違えた善意だらけですよ。方向を間違えないように慎重に行動しても間違えるよ。めんどくせ。
間違えちゃった善意は善意じゃないでしょ。悪だよ。人を殺すのが善なわけがない。自分の感覚なんて全くあてにならないから考えても無駄。しかしお年寄りに席を譲らないことは悪とされるじゃん。なんやそれ。

ってなるんですよね。
相手のことを考えすぎて、何が「善」なのかわからなくなっちゃう。
優しい人ほどこういう思考に陥ってしまうんだろうなー。

わからないままじゃダメか?

で、大人になった今思うのは
「やっぱりわからないものはわからない」ということです(笑)。
仕方ないよね、真実だもの。

釣る人、釣られる人、そしてそれを指摘する人 - がちゃまにあ日報

前回の記事でも釣りを事例に似たようなこと書いたけど、
「文章の裏に含まれる真意は読み取ることができないんだから、それが釣りかどうかを決めるのは釣られた人自身」
これを「善悪」に置き換えれば、
「その行為の裏に含まれる意図は読み取れないんだから、それを善か悪か決めるのは行為を受けた人自身」
となるわけです。
逆の立場で考えれば、「相手が行為をどう捉えるかはわからないのだから、善か悪かは相手の判断に委ねるしかない」。
例えば「席を譲る」行為が相手にとって嬉しい場合もあるし、嫌がられる場合もある。
それを決めるのは、その行為を受け「席を譲られた」人のみ。
「席を譲った」側には決める権利はありません。

だからさ。

細かいこと気にせずやっちゃえばいいんじゃなかろうか。
そして意味付けは相手に委ねよう。
これって無責任ですか?

「善行だけしかしたくない」「悪事しか働きたくない」どっちも無理。
決めるのは相手だもの。
残念ながら物事自体に善悪はない(と私は思っている)。

「善人になれば評価される」なんていう昔の私の考えは、残念ながら間違いだった。
「善」の基準が人によって違うからだ。
(「悪人」になれなかったという点では「善人寄り」なんだろうけど)

間違いだと気付いたが、考えたこと自体が無駄だったとは思っていない。
「善人」になることで評価を得たい、そう思っている自分に気付けたからだ。
「悪人になれない」ということに気付けたのなんか、かなりラッキーだと思う(きつかったけど)。

「物事の善悪にこだわっている」そういう自分を認識したらちょっとは何か変わるかもね?
と、説教めいたことを言って終わりたいと思います。


部屋が寒すぎて肺がヒューヒューいうようになった。やばい。