ちまちまと幸せを積み上げる生活がしたい

さて久しぶりの更新。(明けましておめでとうございます)

昨年からずっと忙殺されている。
終わりが見えなくていい加減疲れてきたこともあり、「どうすれば毎日幸せに暮らせるか」をよく考えるようになった。
これは何度も行っていることだが、結局人生なんて「毎日の積み重ね」でしかない。
幸せになるには、人生一発逆転のような大きな幸せではなく、小さな幸せを重ねるのが正攻法なのだと考えている。
では実際にどうすればいいか。今までの反省を踏まえて考えてみたので書こうと思う。

家事を自動化して自分の時間を作る

7:30頃に家を出て、帰宅は22:30頃。
毎日ではないが、かなりの頻度でこんな生活をしている。
当然まともに家事などできるわけもなく、休日にまとめて対応というスタイルにならざるを得なかったのだが、この数ヶ月で何とか持ち直してきた。
改善できたのは間違い無く便利家電のおかげ。
食洗機、ドラム式洗濯機、ホットクック。
この3つがなければ「生活できない」と掛け値無しに言っていいくらいに依存している。

実は、この3つが揃ってからもう1年くらいは経っているはずである。
それでもここまで生活が立て直せなかったのは、自分が便利家電を使いこなせていなかったからに他ならない。
(特にホットクックは未だに使いこなせている気がしない…)
どんなに道具を揃えても、使わなければ意味がないのだ。
「家事を自動化する」という方針は間違っていなかったが、道具が揃えば自動化できるはずというのは安易だったように思う。
最近ようやく型にはまり、こうやってブログも書けるようになってきたので嬉しい。

仕事は適度に手を抜く

こんなことを書くと怒られそうだが、仕事は当たり障りのない程度にやることにした。
今までの私は「仕事楽しい!!」だったのだから、大きな変化である。
変化の理由は、環境が変わって仕事が面白くなくなったから。
人間関係や社内政治的なものが色々干渉してきて、まともにやっているのがアホらしくなってしまったのだ。
仕事に100%のパワーを割くより、60%を仕事、残り40%を自分の楽しみに使いたい。
面白くないことに時間やパワーを使い切る人生を過ごせば、死ぬ時に後悔するのは自明である。
そういう思いをしたくないのだ、私は。

また、100%でやったところで給与に反映されないというのも、モチベーションが上がらない大きな理由だ。
これはサラリーマンである以上逃れられない宿命なのかもしれないが、どれだけ利益を出しても(または損失を回避しても)、スズメの涙ほどしかフィードバックされない。
それなら、副業や趣味など、自分の人生にプラスになることに時間を使ったほうが良いだろう。

会社に人生を捧げても、会社は自分を守ってはくれない。
仕事が私にとって「楽しくないこと」になってしまった以上、適度に手を抜く、対価に見合うくらいで止めることがQOL向上には必要である。
(「手を抜く」は「学習しない・いい加減にやる」という意味ではなく、「積極的にやらない・深追いせず必要なことのみ対応する」という感じ)

自分を満たすものに投資する

何かものを買うとき、若かりし頃の基準は「値段」だった。
昨日が多少落ちても、それが妥協できる範囲なら値段が安いものを買っていた。
それはそれで間違いではないのかもしれないが、残念ながらQOLはどんどん下がって行く。

QOLが下がるのは、自尊心が満たされないからだ。
「本当はこちらのデザインが欲しい。でも高いからこちらにしよう」というのは、自分の欲求(=これが欲しいという気持ち)を否定する選び方である。
「お金」という価値基準を最重要視する傾向は今でも根強いが、個人的にはあまりおすすめできないという印象。
積極的に「安いもの」を選択することができる人は、もちろんこの限りではないが。

私は物心ついた時からそういう選び方をしてきたので、ついには何が欲しいのかよくわからなくなってしまった。
(ちなみに「必要なもの」は迷わず選べるし、誰かのためのものも値段を気にせず買える)
35歳を越えたくらいからようやく枷が外れたような気がしているが、それでもストレートに「これが欲しい!」で選ぶのは難しい。
この行動がQOLを下げていると気付いたので、人に迷惑をかけない限り、衝動的な行動も極力否定しないことにしている。
例えば夜遅くに帰ってから胃もたれ上等でチーズたっぷりのピザを食べてみたり。これは最高においしかった。

ゲームを発売日に即買いしたり、嗜好品をある程度グレードの高いものにしたりもした。
ふらっと旅行に行くようになったことも大きな変化である。SAや道の駅で地元の特産品を買って楽しんだりしている。
結果として、過剰にものを欲することはなくなったし、何となく感じていた不自由さや他人への線引きも薄まっているように思う。

「画一的な幸せ」では幸せになれないと気付く

例えば私は結婚していないし、子供もいない。
同年代の友人には家族がいる。

「ああ、私は友人よりも劣っているし、不幸だ。」と考えることは、幸いにして、ない。
「劣る」もこの場合の「不幸」も、友人と自分を「結婚は幸せである」という価値基準で比較した結果でしかないと知っているからである。
(知っているのは「役に立たない」と言われがちな文系卒のおかげ。人生について考えるという点ではとてもプラスになっている。)
例えば「自由時間の有無」という価値基準で比較すれば、圧倒的に私の方が「幸せ」になる。
「自己決定権」や「お金の自由」あたりも私の方が融通が効くかもしれない。
逆に、「緊急時の対応」や「安定」という点では負けているだろう。
結局、どちらも一長一短なのだ。

世間一般で言われる幸せに自分が則していないからと言って、気にすることはないように思う。
何かを持っていないのは、その対となる価値を持っていることと同義だ。
どんな生き方をしてもいいが、肝要なのは「自分がその生き方満足できるか」であろう。
幸せになるには、ゴールとなる幸せの位置をまず把握する必要があるが、それは常識や普通として語られる「画一的な幸せ」ではないことを意識しておきたいと考えている。

誰かを幸せにすることが自分の幸せになる

長々と書いて来たが、自分が幸せになる最強の方法は「誰かを幸せにする」ことだと考えている。
「誰か」は人間でなくても、何なら生き物でなくても構わない。ちなみに私は猫である。

猫に美味しいご飯をあげる。
甘えて来たら撫でる。
暖かくて柔らかい場所で寝かせる。(主に私のベッド)

猫は家事をしないし、お金を持ってくる訳でもないが、のびのびと穏やかに生きているのを見るだけで、なんとも満たされた気持ちになる。
日常にもっと幸せな時間を増やすのであれば、同じように誰かが喜ぶことを積極的にすればいいのだろう。
(優しくするとすぐに搾取してくる輩も多く、注意が必要なのが世知辛い)

また、自分が誰かの優しさを受け取ることも大切だ。
誰かの親切に対してつい遠慮してしまうが、受け取ることで相手を満たすことができるということは覚えておいた方がいいだろう。
例えば、公共交通機関で席を譲ったのに座ってもらえなかったら、何とも気まずい感じになる。
遠慮は美徳とされることが多いが、気持ちを込めて差し出されたものはありがたく受け取る方が良いと個人的には考えている。

毎日幸せな瞬間を重ねて生きたい

小さな幸せを積み上げるには、自分と、自分が大事にしているものを大事にすれば良い。
とはわかっていても、その方法論が無数にあり、外野が色々なものを押し付けてくるために見失いやすい。
最近ようやくQOLが改善して来た感じがあるので、この調子で毎日幸せを感じつつ過ごして生きたいと思っている。