年が明けたので生活習慣と気力について考えてみる

みなさま明けましておめでとうございます。
お久しぶりながちゃまにあです。どーもこんにちは。


年末年始は9連休。
長い休みに油断していろいろなことを先延ばしにした結果、いまだに大掃除すら完了しないというこの現実(笑)
どうやらEDF*1に入隊しすぎたようだ・・・

9日間もあったのに、地球防衛軍4以外のやりたいことにはほとんどほとんど手が出せませんでした。
どうやら時間があれば解決するというものでもないらしい。
ということで、今日は生活習慣と気力について考えてみようと思います。

気付かないうちにやられている

私が「時間がない」と強く感じるようになったのは、昨年の夏くらいからだろうか。

いろいろこなしているつもりなんだけど、それ以上に「やるべきこと*2」が増えていく。
「やるべきこと」を優先的にこなしていかざるをえないので「やりたいこと」がどんどん後回しになる。
結果として、「やりたいこと」が全く現実味を帯びなくなってしまった。
それについて考えてみても、実行している自分の姿やそこに至る手順など、まあ面白いくらいにイメージが浮かんでこない。
それがどれだけ簡単に実現可能であっても、である。

そして登場するのは「惰性でできること」。
具体的にはスマホのゲームや無目的なインターネットの閲覧などなど。
なんとなくやっているだけで、頭も体も使わない、そういう類のものである。
(これらが無意味だとかつまらんことだとか言いたいわけではない。ゲームを介してコミュニケーションが図れる場合も多々あるし、ネット上には思わぬところにネタが転がっていることもある。行為それ自体ではなく、惰性でやっている私がいけないのだと思う。)

こうして時間はさらに失われ、「やるべきこと」も「やりたいこと」も蓄積されていく。
そのプレッシャーによって動くのが億劫になり、今まで以上に惰性で行動するようになる。
以下ループ。

こういう状況になっていることを自覚するのはなかなか難しい。
ゆっくりと、真綿で首を絞められるように進行していくからだ。
私なんか、気付けばどっぷり胸まで浸かってしまっていた。やばい。

人生の幸福度に関わる大問題

こういう生活スタイルのままでも、生きていくことは可能だ。
衣食住を維持するだけの収入さえ確保できていれば、生命に関わることはない。
その犠牲となるのは精神的な満足感、幸福感である。

人生が80年だとすれば、私に残された時間はあと48年。
48年「も」と捉えるか、48年「しか」と捉えるかは個人差があるだろうが、間違いなく言えるのは「持てる時間は有限である」ということだ。


私の脳内では、「やりたいこと」は透明な壁に囲まれている感覚である(こういうとこがなんだか中二ですね)。
はっきり見えているのだけど、触れることはできない。それを破る方法も思いつかない。
そうこうしているうちに周りには「やるべきこと」が集まり、「やりたいこと」はその中に埋没してしまう。
手を伸ばそうと足掻けば「惰性でできること」が様々な方法で誘惑してくる。
キーアイテムを守るボスと、襲い掛かってくる数多くの雑魚敵、みたいな感じと言えば伝わるだろうか。

雑事に囚われて時間を浪費し、年老いて動けなくなってから「あれをしておけば良かった」なんて思いたくはない。
仮に今「イキガミ*3なんかが来たら、私は相当な後悔の念を抱きながら死を迎えることになる。
死ぬ直前の後悔って、何より辛いと思う。

時間が解決してくれる、わけではなかった

正直なところ、私はまとまった時間さえ取れればこの手の問題は解決すると思っていた。
忙しくて見失っているだけだ、そう思っていた。

でもそれは勘違いだったと、この9連休で気付かされた。

私にとって必要なのは時間ではなく、惰性による行動をやめ、やりたいことを実行するための「気力」のようだ。

「気力」、これは行動しようとする意志を持続するためのエネルギー源となるものである。
行動に移さないための様々な言い訳が脳裏に浮かんだり、「面倒くさい」という感覚が湧きあがったりするのは、恐らく「気力」が不足しているのではないかと思っている。
「しようと思ったけど結局しなかった」これが気力不足がもたらす結果である。

「気力」を削ぐ原因はたくさんあるが、私にとっての最大の要因は恐らく「我慢」だ。

「我慢」とは欲求を抑えつけることである。
他人のために何かを我慢することは概ね肯定的に評価されているし、もちろん社会生活をする上では必要な能力なのだが、どうやら度が過ぎると欲求自体が姿を見せなくなってくるらしい。
この過度の「我慢」というものが、私にとって諸悪の根源なのではないかと思っている。

例えば食事。
私には「今日は○○が食べたい」という感覚が全くない。
だから外食のときに決めるのは大抵うちの人だし*4、どうしても私が決めなければならないときは、うどんか寿司かカツ丼である(笑)
家でのご飯は、うちの人が好きそうなものを作っている。
別に遠慮しているとかではなくて、本当に何も浮かばないのだ。
「休日にどこへ行くか」も私にとっては悩む事案である。
地方故に遊べる場所が少ないと言うのも一因ではあるだろうが、これといって行きたい所がないので、いつも何となく大型ショッピングモールに行ってしまう。
そこそこ楽しいのだが、やはり「そこそこ」止まり。
どこへ行っても、明日もまた行きたいとか名残惜しいとか、そう思うことはまずない。

「我慢することでストレスを感じるくらいなら、最初から希望を持たない」
私の中ではそういうことになっているようである。
それはそれで楽なんだけど、その代償として劇的に感情が動くこともない。
物事に対して冷静だからなのか、自分のことでも第三者の視点になってしまうからなのか、とにかく日常で感じられる「楽しい」も「嬉しい」も「おいしい」も、すべて鈍化されてしまっている。
毎日を淡々と過ごすことに違和感がなくなっている。
何をやっても大した成果(高揚感)が得られないことがわかっているから、何かをしようという気もなくなる。
こうやって「気力」はなくなっていくのだろう。

こういうのをポジティブに考えれば「精神面のリスクマネジメントをした生き方」ということもできるのかもしれない。
期待しないのだから、当然失望もない。
だがその代償として満足感や幸福感を得られないというのであれば、それは私の望む生き方ではない。

もっと素直に、泥臭く生きていたいのだ、本当は。

考えるより動くに限る

私が欲求を我慢してしまうのは、その欲求が受け入れられないときのストレスが怖いからである。
トライ&エラー*5を繰り返せばいいことは理解しているが、メンタル面が追いついてこないことを理由にそれを避けてきた。
その結果が今である。ダメじゃん。

脱却するためには我慢せずに欲求を素直に実現させることが肝要。
これは言い換えれば、「理性を挟まずに衝動のままに行動する」*6ということだ。

誰しもトイレに行きたくなったら「トイレに行く」し、お腹がすいたら「何かを食べる」。
すぐに実行できなくても、そういう志向の下に行動するはずである。
そういう生存に不可欠な欲求だけではなく、私の「やりたいこと」もそのレベルに置いてみるのだ。
もちろんいつでもそうできるわけではないから、意識的にこういう時間を作らなければならない。
これができて初めて「時間が足りない」と堂々と言えるようになるんだろうな。

ライフハック記事なんかでは「やりたいことをリストアップせよ」なんて書かれているが、それをすると「やりたいこと」と「やるべきこと」が混ざってしまう気がしている。
それ以前に、書いている間に挫折しそうな予感しかしないのは私だけだろうか(笑)
はてなには面白い記事がごろごろしているから、そこから何か楽しそうなのを探そうかな。


地球防衛軍4

地球防衛軍4

*1:Earth Defence Forceの略。地球防衛軍4(PS3)というゲームに出てきます。このゲーム、処理落ちとかバグもあるけど楽しい(虫嫌いさんはできないかも)。ちなみに私はウイングダイバー専門です。

*2:その正体は私自身が勝手に「やるべきだと設定したこと」である。要は自爆しているだけなのだが、なかなか脱却できない。困った。

*3:イキガミ間瀬元朗による日本の漫画、またこれを原作とした映画。イキガミ=死亡予告証で、受け取ると24時間後には死ななくてはならない。私が好きな松田翔太さん主演。ニヤニヤ。

*4:こういう丸投げってほんとは良くないと思います。反省。

*5:わかりやすいのでこっち使いますが、正確にはtrial and errorとのこと。知らなかった。

*6:あくまで私の場合です。もちろんその欲求が犯罪行為とかなら理性で制御しなきゃだめ絶対。