人を楽しませるものを作りたい

年末に買ったATAOの財布がものすごくきれいだ。

値は張ったものの、見ているだけでも満足なくらい気に入っている。ほんと買って良かった。

自分の気分が良くなるものがあるといい

誰でもそうだと思うが、生きていると感情をマイナス側に引っ張られる出来事が多々ある。
それは他人のちょっとした言動だったり、恵まれない環境だったり。
出来事に対する視点を変えることでその辛さを軽減することはできるけど、それすらできない気分の時もある。
そんな時は、自分を引っ張り上げてくれる何かにすがろう。

それは人でもいいけど、他者が自分の望むように動くとは限らない。
だからと言ってコントロールするのもいけない。行動の最終決定権はあくまでその人にあるのだから。

すがるのは物がいい。
自分が大好きな、見ていて、触れていてニヤニヤしてしまうようなもの。
そういうものがあると毎日楽しい。
この財布はしっかりそういう存在になってくれた。

「ヲタ」の何が悪い?むしろ幸せなんじゃ?

世間は流行に追随せず自分の好きを貫く人を「オタク」と揶揄するけど、そういう人たちの方がよっぽど幸せそうに見えるのは私だけではないはずだ。
「流行に流されない=企業の購買誘導に乗らない→カモが減るから存在を認めたくない=メディアは否定的」
とか、そういうこともあるのかもしれない。
力の強い(お金のある)者にとって不都合な存在は、実際はどんなに優れていても下に扱われたりする。
…まあこれはあくまで仮定に仮定を重ねた妄想レベルの話だけど。でもこういう視点もあってもいいはず。
そんなわけで、私はそれがどんなジャンルであれ、何かを「大好き」というのはとてもいいことだと思うし、それがないと幸せから遠ざかってしまうのではないかと思っている。

人を楽しませるものを作りたい

私は何かを作るのが好きだ。
それは絵や手芸作品、料理もするしゲームを作ったりもした(過去の話だけど)。
DTMはこれからやりたいし、模型とかミニチュアなんかもやってみたい。
自分の作った何かが人を楽しませる、そういうのを目指してやっていきたいなーと思っている。

最近某芸人さんが自分の描いた絵本を無料にしたけど、私は対価を取るつもりだ。
クオリティの低い作品に価値なんて…と思ってたけど、技術だけではなく自分のセンスに対しての対価も必要だなーと思い直した。
お金の奴隷から解放したかったら、みんなが裕福にならないと。
「お金を要求するのは浅ましいこと」みたいな感覚は、いい加減捨てよう。

ブログでは楽しい話をしたいよね

どうもブログがグチっぽくなっていけない。
まあ寒いし暗いし、冬にそんなに元気になれないのはいつものことだし、グチや悩みを聞かされやすい立ち位置なのも良くないのだろう。
だがそれは私の目指すところではない。
私はもっと楽しい話がしたいのだ!

ブログとSNSは逆の位置にある

私にとってブログというのは、プライバシーを守らなければならないが心情を最大限ストレートに出せる、なかなかさじ加減の難しい場所だ。
FBなどの実名SNSは逆で、プライベートなことは書けるけど本音を書くと色々と角が立つ。
昔飲み会の中で関わった程度なのに、いきなり下の名前であだ名を付けてくるような相手にも、SNSでは「は?何なん?」とは言えない。
本人とSNSで友達になっていなくても、どこでどう繋がるかわからないから気を抜けないし。
そんなわけで、ブログは必然的にグチっぽい感じに寄ってしまう。

だがそれはよろしくない。
自分の捌け口にはなれど、後で読んでも楽しくないし(むしろ黒歴史)、書いていてもテンションが上がるわけでもない。
ネガティブなものを認めないわけではないが、焦点を当てるならポジティブな方に。

楽しむのにはパワーがいる

冬という季節と忙しさが相まって、どうやら自分が思っている以上に削られているらしい。
物事を楽しむにはパワーがいる。
パワーを維持するには余計なジャッジやルールを入れないこと、わかりやすく言えばこどものようになることが必要なんだろう。
細かいことは気にしない、やりたいと思ったらすぐやる、嫌なことはしない。
これができればいいよね。

日常にどうやって盛り込むか

とはいえ、ずっとこどもでなんかいられるわけがない。
大人としての役割を果たしつつ、こどもになれる瞬間をたくさん確保するのが良いのかと思う。

だからこそ、好きな文房具を職場に持ち込んだり、日常持ち歩くスマホや手帳、財布にこだわったり。
でも1番は人かな。
好きな人たちに囲まれるのが何より楽しい。

ブログにはプライベートの充実具合があらわれる

楽しんでいるから楽しく生きられる、というのが普通の論理。
でも実は、自分が楽しんで生きているからこそ色々なものに興味を持つし、実際にそれを楽しむことができるのかもしれない。

まあどっちが先でもいいか。
結局、積極的に何でもやって、いろんな人と仲良くなろうって結論にしかならないなあ(笑)

善悪と好き嫌いは混ぜないように

朝から胃が痛い。うぐぐ。

ふと思ったんだけど、善悪で判断することは、ある1つの価値基準に支配されてるということだよなーと。
それってものすごく自由度低くないか?
そういう意味では、広い視野というのも大事なのか。

ただし、好き嫌いは完全に主観であり、絶対基準。
ここは譲れない。

この辺混同するから生きにくくなるんかもなー。
とか思った朝。

さて、今日こそ早く帰ってくる!!

そろそろ中立なんざやめて、思いっきり肩入れしてやろうかね。

このブログを始めてから3年以上たった。
書く内容にまとまりは全くないが、一応中立というか、極力視点を変えた捉え方もするように配慮している。
絶対的な善悪がない以上(法に触れるとかは別として)、何かを「悪」と断罪はできないからだ。
自分の感情を客観視するために、文体も「〜である」のようにあえて堅めにしている。
「色々な意見があるけれど結論はこうだと自分は思う」
その「色々な意見」を自分の主観で消さないために取った方法である。

どちらの意見にも理解を示す、一般的にはそれは「寛容」と評される状態なのだと思う。
おかげ様で炎上したこともなく、平穏にブログを続けることがてきている。

だが少々この中立状態に飽きてしまった。

全てに寛容であるということは当時に何を決めているでもないということだ。
決めないということは、自分の中に指針がないということである。
厳密に言えば、私の場合ないというわけではなく、あるにもかかわらずそれを「配慮」の名の下に抑えている状態だ。

もちろん敢えて炎上させることは考えていないし*1、攻撃的になるつもりもない。
ただ少し、素直になろうかなーと思っただけである。

視点を変えてものを見る癖はしっかりついたが、回りくどく言葉を並べて真意をぼやかす、そのやり方は今の私には性に合わなくなってしまった。
別に何かあったわけではないし、ましてや「PVが欲しい」とかいうブログ的な理由でもない。
何となく、変えようという気になっただけの話だ。

そんなわけで、これからは好きなものは好きだということを、自分の視点だけで、ストレートに押し出していこうと思っている。
もちろん嫌いな人やものもあるが、敢えて嫌いなものに意識をフォーカスさせておくことはないだろう。
あんまり腹が立ったら書くかもしれないが(笑)
とにかく、もっとカジュアルにブログと関わろうと思った次第である。

*1:炎上させるってほんとに悪手だと思う。人の気分を害するようなものを作る人の気が知れない。どうせならみんなが幸せになる方向にその力を使えばいいのに。

スタバの新作「ホワイトチョコレート&ピーチクリームフラペチーノ」がうますぎるのでめっちゃオススメしたい

もうタイトルで言いたいことは全て言っているのだけど、スタバの新作「ホワイトチョコレート&ピーチクリームフラペチーノ」がうまい。超うまい。

桃の香りがふわっとして、甘過ぎない。
うっかりグランデサイズにしてしまったけど*1、これなら飲みきれる。


果肉はゴロゴロ。だけど吸いにくくなることはないサイズ。
スタバのフルーツ系のフラペチーノは果肉をケチらないのが嬉しい。
以前のメロンやストロベリーのフラペチーノも、しっかり素材の味がしてた。


かわいい女の子からスマイルももらいました。
ほんとおいしいので皆様も是非!

*1:コーヒー系ならいいが、フラペチーノはいつもトールですら飲みきれずに溶けてしまう

自己評価と他者評価が乖離すると厄介だ

自分の生み出したもの(文章・絵など)を読まれるのがすごく苦手だ。

数字に基づいてデータをつくり、そこに考察を入れるような、「正しさ」のある文章はいいのだ。
そうではなくて、自分の感情や意思、趣味嗜好を表現するようなものを見られるのが嫌なのである。

こういう感覚を持つようになった理由に、思い当たる節はある。
自分の基準ですごくいいものができたと思ってもそれを他者に一蹴されたり、社会的な評価軸においていい成績を収めた(客観的に見てもよくできた)状態であっても妥当な評価がされない、こういうことが続いて「いい結果でも見せるのが嫌」という感覚を持つようになってしまった。
恥ずかしながら、「どうせ見せても○○だし」なんて拗ねたことを思ったりしている。

もちろん現実にはそんなことはない。
ありがたいことに、職場でもプライベートでも、過大評価なんじゃないかというくらい評価されている。
それを「そんなことはない。調子に乗っちゃいけない」と、自分の心が受け入れない。
できる自覚はあるし、周りの評価もある。だけど自分が受け入れないというのは、なかなか奇妙な現象である。
環境がどうであれ、結局は自分の意思次第か。

逆に言えば、体感的なものは自分次第でどうにでもなるということでもある。
幸不幸なんて体感でしかないのだから、現状よりも満たされている感覚があればいいのかもしれない。


…なんてことを思った朝。
今自分の文章が読まれてジャッジされていると思うと憂鬱だ。
ものすごいダメ出しを食らうかも…という予感しかないが、きっと現実はそうでもないんだろう。
現状と自分の認識が乖離すると厄介だ。
まあ 現実<認識 ではないのが救いだな。

さて金曜日。がんばりますかね。

情報過多でどれがいいのかわからない

情報ばかりである。

朝から何言ってるんだこいつ、と思われるかもしれない。
どこを見ても(観測範囲狭いが)「オススメの〇〇〜選」とか「〜する方法」とかばかりで、何だかそういうタイトルを見るのに疲れてしまった。
別にアフィリエイトを否定することはないのだが。

そういうものばかりあるように見えてしまって(本当は目立っているだけ)、なんとなく自分の中で引っかかってしまっているけど、これもブーメランかつただの愚痴レベルの話なんだろう。
自分も人に勧めたいことはたくさんあるし、実際書いてもいる。

だけどやっぱり、お金の匂いに寄ってくる感じは苦手だなあ。
「参考になります」とかな。本当に好きならいいが。
目的のために近付かれる感じにはつい警戒してしまう。
神経質すぎやねん、マジで(笑)

さて、仕事してきます。
良い1日を!

【アゲハチョウ月報 合併号】自然界は厳しい。羽化できなかったさなぎ

去年、ふとした思いつきからアゲハの幼虫を確保→羽化させて巣立ち という、アゲハブリーダーをした。




我が家のみかんの木は通年変わらず人気で、気付けば数匹の幼虫が住んでいる。
(そしてみかんは丸裸に…おかげで未だに実をつけたことがない)
秋になると、春待ちと思われる幼虫が2匹。
丸々とした超大型ルーキーである。
これは羽化したらさぞかし立派なアゲハになるに違いない。
だが、確保しようと思っている間に姿が見られなくなってしまった。
これは鳥さんに食べられたか…と諦めていたら、隣接する多肉植物で蛹化しているのを発見した。
だが残念ながら羽化に失敗したようである。

ピンボケすぎてわからないかもしれないが…
中央左の茶色い物体がサナギである。
穴が空いているのがおわかりいただけるだろうか。
どうやらハチか何かに寄生されていたようである。

寄生に関しては、このページに詳しく記載されている。

蝶への寄生(寄生バエ、寄生バチ)
大阪市とその周辺の蝶 より

無抵抗な幼虫は格好の食料だ。
食料に卵を産みつけておけば、孵化した後に餓死することはない。
寄生というのは生存率を上げる、ものすごくレベルの高い産卵方法だと思う。


現在、みかんの木に幼虫は確認できない。黒い卵が1つだけ残っている。
幼虫よりは寒さ耐性ありそうだが、望みは薄そうだ。
孵化したら確保しようと思う。

春になればアゲハがまた産卵しにくるだろう。
それまでブリーダー稼業はしばしお休み。
気長に楽しんでいこうと思っている。